【梅原トレーナーのからだづくり哲学】食べ物の好き嫌いはいくらあっても良い(上)
今日は食事の好き嫌いについて、論じてみたいと思う。
不肖、身体づくりの専門家の端くれが書いている本レポートは、ときに「ですます調」だったり「である調」だったり、あるいは親しみを込めて口語調のときもある。
内容の空気感、テーマから発せられる雰囲気で使い分けている。ようは伝わりやすいよう私なりの工夫をしているということだ。
嫌がらず、どうぞお付き合いいただきたい。
さて本題に入ろう。
今回は好き嫌いについて。この手の話はほぼ100%、子育て世代真っ最中のお母さんたちが苦しんでいる我が子の食事についてだろう。
語気を強める部分も多くなるので「である調」でいく。
▼自分自身の経験
かくいう私も平均からはるか遅く子を授かり(妻は若いのだが)、いま一歳児を共働き夫婦で育てている最中だ。
私個人は好き嫌いが少ない。というか、無い。食べなくても良いなら自ら口に入れることはしないものはあるが、それが食べられないわけではない。
ものすごく辛い思いをしながらでないと食べられないようなものは、たぶんほとんどない。
それは物心ついたときからそうなのか。多分違う。記憶にないが、大人になるにつれて、どんなものもさほど気にせず食べるようになっていったと思う。
書きながら思い出したものが一つあった。
茄子(なす)だ。
これは食べず嫌いに近いが、家で出るナスの感じが好きではなく、意識的に遠ざけてきた。今は何も気ならず食べることができる。何かを頑張った記憶も無い。
多くの人は、きっとこのような程度なのではないかと思う。
もしくは家で出されるものは食べたくないが、外で食べると美味しいと感じたものがある。あなたも経験があると思う。
私の場合は「南瓜(カボチャ)」と「白子」である。
この場合は、ただ家の調理法が合わなかったというだけの話で、それは例えば外食でも同じことになる。ある店ではマズくて別のところではウマい、ということと同じ。
▼好き嫌いを悪とすることはナンセンス
子育ての話に戻そう。
先に結論から言ってしまうが、好き嫌いなくどんなものでも食べられることが良いことだ、というのは本当なのだろうか。
食べられないものがあると、不健康?病気になる?本当ですか?
親とくにお母さんは子の健康を按じ、一所懸命に好き嫌いをさせないように育てようとする。幼い頃から今日はこれ次はこれと、あらゆるものを食べるよう要求する。
だがありのまま言おう。
それはまったくのナンセンスである。
世の中には完ぺきなものはない。あなたも何かのジャンルで世にあるすべてを網羅できているものがあるだろうか。
音楽をしている人はPOPSからレゲエからジャズからクラシックから演歌民謡まで、すべて歌いこなせるか。また世にある楽器をすべて使いこなせるか。
スポーツをする人は?学者は?料理人は?レーサーは?僧侶は?
できっこない。そのジャンルを全部習得することなど、できないししない。する必要がないからだ。
それなのに、あんな小さいちびっ子の食べる物だけは、完ぺきを求めている。
▼決めつけているものを考え直す
もはや半分なにも考えずに、すべてを食べられるようにしようと頑張っていると思う。
一度冷静になって、本当に年端もいかない幼児期からそれを目指すことがプラスか、じっくり考えてみてほしい。
食べたくない物を無理に食べさせられようとしている子どもも、食べてくれなくてストレスを抱える親も、どちらも不幸である。嫌な思いばかりが増えていく。
だったらそれは本当に必要なことか?
たまに風邪をひくなどして体調を壊すのは、あのときピーマンやナスやホウレンソウを食べなかったからなのだろうか。
決してそうではないはずだ。
いま私たちが食べている数多の農作物、世界の様々な料理、それらは今だからこそそうなのであり、ほんのちょっと一昔前、私たちの親の世代ですら、もっとそれらは少なかった。
世界が発展して新しい物や遠くの物を手に入れられるようになっているが、今よりは交易が少ない時代でも、人々は健康に逞しく生きてきたし、子どもは元気にすくすく育ってきた。
その事実は否定しようがないのである。この世の中にあるものを網羅しようというのは、見えない過大な不安や心配に起因している。
(次号へつづく)
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