育成に逃げるコーチ(下)【梅原トレーナーのからだづくり哲学】
育成をテーマにしたレポートは幾度となく書いている。ここではたったいま私が実際に体験した事実をもとに、ささやかな投げ掛けを致したい。
わりと最近、あるバスケットボールチームの監督と話す機会があり、同時にチームの活動している様子も見学させてもらった。とても前向きだし発展的な考えをお持ちのチームで、監督も選手もよく勉強している。
バスケットボールの技術的な部分、からだづくりの部分、メディカルの部分など、多くの知識を入れてそれを活かそうと努力なされている様子が強く伝わってきた。
それと併せて、結果を出せる要素も充分に持ち合わせていた。要するに優秀な競技成績を残せる可能性の高い人材が多く、すでにして運動能力を備え、体格にも恵まれた選手がたくさん在籍している。
これはどう間違っても強くなる、私はそう確信した。
ボトムアップと指導者の立ち位置
この話に限らず、育成を重視したチームづくりをしている場合、大抵は主役である選手自身が主体的に行動し、自ら学んでいくスタイルで活動している。
したがって、伸びていくのも大会で結果を残すのも、選手みずからの頑張り次第ということになる。当然のことを言っているに過ぎないが、私が言いたいのは、指導者が「勝つこと」から一切の手を引いたということである。
コーチであるから、手綱を握っていてチームを牽引し目標を果たすべく尽くすことがその役割である。それはなんら、おかしなことではない。
チーム、選手、コーチすべてが共に「強くなろう」「上手くなろう」「勝とう」とスクラムを組んでいるのだから、育成だろうと選手ファーストだろうと他のなにであろうと、コーチの目標も勝つことにある。
そうならば、競技成績を人任せにしてはいけない。
選手自身の自由な行動は尊重すべきだが、結果や成長に責任を持たない姿勢はそれと意味がまるで違う。
人生でチャンスは多くないし、体格や環境に恵まれることもほぼ運に近い。その幸運を手にしているのだったら、限りなく確実性が高いのだから結果を残してあげるのがコーチの務めだろうと、私は思う。
それを勝利至上主義とか、コーチの押し付けみたいな意味で捉えることは完全な取り違えであり、また育成への誤った思い込みと言わざるを得ない。
育成はなぜ存在するのか
話を戻せば、私は上述の監督にまこと僭越ながら「絶対に上位に食い込めます」と半ば外野の勝手なエールを、厚かましくも伝えた。
それは暗に、育成という言葉に逃げ込んではいけない、という喚起を込めたメッセージだった。
育成だから勝たなくても良いなんてことはない。良い人材を活躍させられなかったとしたら、それはまぎれもなく私たち指導者の努力不足が原因なのである。そこから避難するための「育成」では、断じてない。
最近、育成の話を聴くにつけ、なにか肩の荷が下りたような「もう勝てなくても監督のせいにならない」というような安堵と解放感を、多くのコーチからありありと実感する。
育成とは逃げなのか?コーチの避難場所なのだろうか?
まさか。育成とは結果への欲求に応えるものであり、選手も指導者も上達したいし勝ちたいと素直に欲している。もっと強くなりたいから、知識と経験を重ねているのだ。
目標達成への意欲と決意が薄れてしまったら、育成は存在しなくなってしまう。
もう一度言う、育成は結果を求めるからこそ存在している。勝利も育成も、なにも変わらない同じものだということを理解してほしい。
否定できない事実
勝つこと、結果を残すことを悪にして、またその責任の重さから脱する理由ともなって育成を掲げる風潮が、ときとして目に飛び込む。
育成は決して「勝たない」ことではない。勝たなくても良いのが育成ではなくて、負け続けても正しいのが育成でもなくて。コーチはチームと選手のレベルアップを放り投げては、絶対にいけない。
極端を言えば、成長したってそれが実を結ばないのならば、一体何のための成長か。スポーツは勝負事なのだから、勝つことを避けてはいけない。
あえて言おう、結果の出ないものを成長とは言わない。これっぽっちも成果の上がらないものに、充実と満足を得る人はいないはずだ。
だから、コーチはどうぞ育成という言葉に逃げず、強くなりたいのならば堂々とそれを求めて、選手とも息を合わせて勝利へ向かって突き進んでほしいと思う。
絶対に「頑張っているんだからいつか」「勝てなくても正しいことをしているからいい」と言って、誤った育成の捉え方を誇示してはいけない。誰もそのようなことを望んではいない。
育成の字は「育つ=上達」と「成る=結果」である。勝つためにこそ、練習して上手くなろうとするのだから。
これからの良き育成のために、勝利をとことん望んで、熱中して、喜ぼう。
(了)
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