今の日本の子供たちに、運動する力を自ら磨き伸ばす力を蘇らせよう その4

スキルアップ 指導法 梅原 淳 練習法 育成法


私は毎日全国の高校を回って、運動部の子供たちに体力トレーニングの鍛練をおこなっている。

體のトレーニングというのは、運動技能を発達させるための取り組みだ。

その手法として、バーベルや自重負荷を使ったウエイト・トレーニングを導入している。

ウエイト・トレーニングを高校生に教えていると、選手たちの多くが體を操ることに苦労している。

私のトレーニングは単に重量物を持ち上げることではなく、難しい動きを巧みに行えるようになることを課題として作られている。

それらを教えていると、身のこなしが下手だなと感じることがものすごく多い。

體の感性が鈍く、自分でうまいやり方を見つけられる子供は正直ほとんどいない。

教えて教えて、細部に至るまで言葉と見本で説明して、手取り足取り施してようやく少し様になる程度だ。

それも、本人が感覚をつかんでいるかどうか定かじゃない。

傍から見れば整った動作であっても、本人はよく解っていないということも多い。

それは他人の力で作られたものであって、自分の身にはなっていない。

つまりその人の能力が本質的には育っていないということになる。

こんなことが今の日本にある、ありのままの現実だ。

▼遊びで運動を覚える

運動とは本来、人からレッスンを受けて覚えるものじゃない。

日常の中で、生活の中で、様々に體を使っていって自然と備わるものである。

スポーツ教室なんかに行かずとも、家庭教師に個人レッスンなどしてもらわずとも、子供は色んなことに興味を抱き、やってみたくなる。

どんどん楽しくなって、無我夢中で没頭していく。それがいわゆる「遊び」だ。

子供にとっては遊びなんだか鍛練なんだか、そんなこと定まっているものではないが、とにかく本気で貪欲で全力で創造的、毎日がその繰り返しであったと思う。

その子供の遊びは、何かまとまった枠組みがあるわけじゃない。

なんとなくこんなことをしよう、という少しのルールを自分たちで作って楽しむ。

走ってみたり跳んでみたり投げてみたり、高いところに登ってみたり坂を滑り降りてみたりと。

それは大人が考えるような「スポーツ」とは、まったく別のものである。

▼遊びはトレーニングそのもの

私は遠く北の大地・北海道の育ちで、そこは冬になると家の塀よりも高く雪が積み重なる。

基地や雪だるまを作ったり、近所の公園や空き地へ行ってはソリ滑りをして遊んだ。

なかでもソリは、北海道のとくに小学生以下の子供には最強アイテムだ。

たしか5歳頃だったと思うが、自分の家の近くに大きな公園があって、その中心は小高い山になっていてソリをするには絶好の場所であった。

慣れないうちはただ座って滑るだけだったが、すぐに物足りなくなり、今度は寝そべったり後ろ向きになって滑りはじめた。

そのうち、誰かに対抗したのか自分で始めたのか憶えていないが、もっと難しいことをしたくなってソリの上に立って滑ることに挑んだ。

はじめは前に付いている紐を掴んでいたが、しばらくしたらそれも放して滑っていた。

ひとつのソリに二人の立ち乗りで滑ってみたりもしたと思う。

より新しいこと、さらに難しいことにチャレンジする意欲が、子供にはある。

あなたの子供時代もきっと同じはずだ。

そう簡単にはできるようにならないが、できるまで何度も何度もチャレンジする。

同じことを飽きることもなく、何度やっても転んでしまうのにいっこうにめげずいつまでも繰り返し滑っていた。

なにか部活の練習やトレーニングのようであるが、はてこれはトレーニングなのだろうか?

当然、遊んでいる本人にそんな意識など一切ない。

ソリ滑りをやりたくて、手放しの立ち滑りをできるようになりたくて没頭しているだけだ。

ただ體への影響で言えば、これは確実に「鍛練」である。

このように私たちは幼少の頃から、日常でトレーニングをしてきたのだ。

さらに言うと、このソリの立ち滑りというのはスノーボードそっくりではないか?

しかし、子供はべつにそのような固定されたものをしているつもりはない。

ただただ単純に、転ばずして下まで滑り降りられるかに挑戦しているのだ。

自分ができるようになるか、もしくは仲間の中で誰が最初にできるかとか、そんな意欲に駆られてエネルギーを発散しているだけであった。

これは個人的な一例に過ぎないが、きっとあなたもそうやって自由にはしゃぎ回って、そこから健康な體を育み、また運動感覚を育ててきたことだろうと思う。

▼ひとつの競技でしか通用しない技術

では、たった今の私たちの日本に戻って考えてみよう。

固定された「スポーツ」というものを、現代の子供たちは幼い頃からやっている。

野球というスポーツ、サッカーというスポーツ、柔道というスポーツ。

私がしていたソリ滑りも、スクールに入ればスノーボードになる。

今の日本の現実は、自分の手足を使って難しい體運動(遊び)に挑戦しているのではなく、あらかじめ決められ指示された固定作業をこなしているような感じだ。

野球で言えば、ボールを投げて空振りさせろ、次の塁に進ませないようにしろ、ボールを打って塁に進んで点を取れ。

勝つ方法にばかりに固執しており、楽しいだろうかと思う。

はじめからこういう仕事をしろと、運動の幅を狭く決められているわけだ。

だから幼い頃からスポーツの世界に入る子供は、限定された動きだけしか身につかない。

スキルが固定されてしまうために、自分の體を自由自在に操る能力を持てないのだ。

體使いの巧みさこそ、まさに運動能力のど真ん中である。

様々な運動課題を自分の感覚で達成していくことにスポーツの根幹があるのに、決められた作業を覚えこまされるだけの訓練を、日本の子供たちはさせられている。

だからたとえ全国大会に出るような、その競技では上級者である選手でも、他の運動動作を行おうとするとまるで覚えが悪かったりする。

▼種目は違っても運動は共通している

自分で運動の感覚を発見する者は、本当に数えるほどだ。べつにその競技は得意なのだから何も問題ないだろう、と言う人もいるかもしれない。

しかし體の機能を存分に発揮できる高い運動能力がなければ、ある一定のラインから上へは伸びていけない。

カテゴリー(年齢)が上がっていけば、全体的に体力や技術力は当然高くなっていく。

その競い合いに勝つためには、自分の體を深く知り、自由自在に操ることのできる高度な運動感覚が必要となるだろう。

なんでもできるからこそ、特定のスポーツ種目で専門的な動作をしようというときに、その技術をより洗練させることが可能となる。

世の中にスポーツ競技は数多あれど、それぞれがまるっきり形態の違う運動をしていることはない。

野球も柔道もサッカーも水泳も、バスケットボールも卓球も新体操もスキーも、運動の根幹はすべて繋がっている。

競技は違えど同じ人間の體を使ってパフォーマンスするものであって、その端の端、先の先に進めば達人のみがもつ類い希なる特異な動作があったとしても、基本的な走ること跳ぶこと投げることバランスを取ること踏ん張ることといった運動要素は、スポーツ種目が変わっても一切なにも違わない。

サッカーでボールを蹴ることとキックベースのそれと、なにが違うのか。

公園の缶蹴りとはどこか違っているのですか?

スポーツ種目の特定動作として身につけるのではなくて、単なる體を使った運動として考えることで可能性は大きく広がる。

野球で例えるならば、本来は「野球の投球動作」なのではなく、ただ物を速く投げる・遠くに投げる・的に当てる、そういう能力なのだ。

それを一つの競技に縛った「投球動作」というもので覚えてしまったら、それしかできない。

ちょっと別の「投げる」をしようとなったときは、またゼロから覚えなくてはいけなくなってしまう。

スポーツというのはいわば、「高度・高級な遊び」と言える。

もっと自由に、特定の競技種目に固定せず目一杯に體を動かして、そうして自分で覚えていくのが本来の運動であることを、私たちは思い出すべきだ。

(以下、次号へ譲る)

この記事を書いた人:梅原淳梅原 淳
運動技能を向上させる専門家として、またバスケットボールでのファンダメンタル・スキルを教えるコーチとして全国各地に出向いています。またその活動から得た日々の思考や発見を、YouTubeなどSNSを活用して情報配信しています。このコーナーで扱う内容は、それらSNSでは記さない一歩踏み込んだ情報として、トレーニング実践レポートをはじめ自分の育て方、大人の再教育、子育て、健康づくり、みなぎる食事など、あらゆるジャンルをテーマにお届けします。